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冷麺王宮

2011/09/30(金) 安易で愚かな「おかわいそうに」が全てを腐らせる

はてブ情報 はてブに登録 はてブ数 雑記
しばらく前のニュースなんですが
細野大臣 最終処分場は県外で - NHK福島県のニュース
http://www.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6055362251.html

「なんじゃそりゃ?」と思いました。まあ、政治家の発言というのは全ての意味において政治的計算要素も多分に含まれているのですが、それを抜きにして、与えられた情報だけを解釈するとなんともなあ、と。

このニュースを聞いて思い出したのが、誰も救わず関係者すべてを貶める「おかわいそうに」の論理。素人目ですが、汚染物質を不要に拡散させるほうが、日本国トータル、公共の利益的にまずいのではないかと。コンセプトが同情心や救済措置としての政策、施策が世の中でしばしば行われるが、果たしてそれは本当に救済になっているのかっていう話です。被害を皆で分かち合おう!というのは精神論であって、実際には自然科学、社会経済や地球環境上の妥当性といったものも充分考慮されなければならない。

むかーし小林よしのりが、従軍慰安婦についてだかの考察で「おかわいそうにの論理」というものを挙げていたことを思い出します。同情すべき余地がある人がいる、環境がある、それをぜひとも救済したい。その結果、誰がどういう迷惑を被ろうが、人のプライドを傷つけようが、知ったことではない。なぜなら「かわいそうな人を救う」という大義名分があるからだ。という、確かそういったロジックだったと思う。まあ読んでおわかりの通り、このロジックでは、救済される人がいる一方で、救済される人以上に迷惑を被る人、傷つけられる誇りや思いといったものが発生する。おいおい、そっちは救済しねーのかよっていう。

まあ、高度な政治的判断というのはしばしば複雑な経緯や目的もありますけども、身近な一般レベルでは、運動会の表彰、なんか100メートル走なんかでも順位づけして表彰せず、「みんなよく頑張ったね賞」をあげるケースがあるらしいですね。平等的措置を採ることによって運動が苦手な子への救済、劣等感の解消が目的で、まあそれは一定の成果をあげるんでしょうけど、運動が得意な子の誇りやプライドはズタズタになってもおかしくない。逆に「テストの点数=学校の成績」は客観的な数字に置き換えられ、運動が得意な子も苦手な子も、皆ひとしく、平等にその現実に向き合わされるのに。

学校なりなんなり、コミュニティ内部でこういった事が起こると、そのコミュニティ全体の知能指数が著しく低下するというか、そういったくだらない措置に付き合って集団でバカ化する。これって個々の子供の誇りや劣等感の葛藤等といった「面倒なのであまり見つめたくない現実問題」から目をそらすだけなんじゃないかと思いますね。問題を掘り下げるのではなく、フタをしている。問題解決のメソッドとしては悪手ですよね。細野さんはこれを日本という国家規模でやろうとしている、ようにも見える。

あまりにくだらない評価基準や評価に基づく政策が実際に行われてそれが改善されなければ、評価者・政策実施者のトータル評価は著しく下がります。結果、学校の先生ならば保護者からの正当な苦情、マスコミからの批判、学級崩壊、学校からの評価の低化・減少といったリスクは避けられない。お仕着せの「頑張ったで賞」をもらって得意げにドヤ顔してる輩も、「そんなんどうでもえーわ」と思ってる同級生からシラケ目で見られるって話です。

これはバリアフリーや障害者福祉、性差別といった問題とは次元が違うわけで、男女がフェアな条件で就職活動をする、就労する、老若男女それぞれが平等にサービスを受けられる社会生活を送るというコト、これは憲法で規定・重視されている人権レベルの問題です。運動に劣等感を持っている、運動が苦手な子に「頑張ったで賞」をあげるということは、運動が出来る子、運動が出来ることにプライドを持っている子をバカにしてコケにしている上、実際のところ、運動が苦手な子までバカにしている。

「下の救済」と「上の伸ばし方」ってのは基本的に別の手段を採らないといけません。例えば勉強に関して言うと、塾業界では実力に応じてクラス分けがなされ、偏差値が上のクラスはより難しい、高度な内容を取り扱う場合が多いです。時にプライドがくすぐられ、同級生の意識も高く、モチベーションが維持・向上されるわけです。下のクラスは補講があったりして、フレンドリーな環境が整備されたり、スピードを変えて基本的な内容を着実にしっかりおさえる。彼らを一緒くたにした挙げ句「勉強わからん、いやや」と言ってる下のレベルにのみ合わせるとどうなるか。想像に難くないですね。クラス内部の雰囲気だけでなく、そんなことをしている塾の経営そのものが危ない。

僕自身は子供の頃、健康上の理由で激しい運動はドクターストップされていて、運動は得意ではなかったんですが、さすがにこういったマヌケな教育上の措置が採られていなくて本当に良かったです。「得意じゃねえんだよなー」という若干の劣等感があることによって、他の事に努力することができたし、学校生活その他で生き残っていく術を自分自身で考え、振り絞っていくことができました。速く走れない気持ちとか、泳ぎが苦手な気持ちとか、それはそれでずっと持っておけばいいじゃんと。大人になってから、もしこういった、「おかわいそうに」のロジックで身近に思いつきみたいなマヌケな措置が実際に発生したら、どうすればよいのか? それはそれで一つのテーマになりそうですね。

幼小中で「粗食給食」 被災地の苦労実感して  : 広島 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hiroshima/news/20110905-...

パターンとしては同じような構造なのがこのニュース。育ち盛りの子供の食事を制限して募金するという姿勢が本当に正しいのか? カロリーオーバーな食事を摂取しがちな大人の食事をちょっと切り詰めろっていうふうにも思うし、本来与えられるべき食事を制限されるのは一種の人権侵害であるとも言える。メシをちゃんと食べた子供が成長して、食事状況の話なんかをして、将来大きくなったら被災地のためになにかできることをできる範囲でしようぜってってことを学校で伝えて欲しい。

世界のどこかのAさんが辛い思いをしているということと、Aさんと無関係なBさんの幸福を制限されるってのはロジカルではない(全世界皆何かしら有機的繋がりがあるんだ!という話はとりあえずおいておきます)。Bさんが自主的に考え思いを寄せて行動し、何かしらの我満をするというのならまだしも、子供の給食はなぁ。「欲しがりません勝つまでは」の思想じゃないんだからな〜。

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参照・参考文献
 岡田斗司夫のマジメな話
小林よしのり  思想なき時代の『ゴーマニズム宣言』
http://netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/mazime/No1...


小林 結局メディアを通して湧き上がってきた人権宗教の「おかわいそうに」の論理なわけだ。テレビと新聞が一番大きな力を持って、みんなを洗脳してしまった。そのメディアの虚構を、どうわからせるかなんだよね。

 わしらの論理は、例えれば不良の論理なんよね。向こう側は「これだけかわいそうな方たちがいますね、謝りましょう」って優等生のきれいごとをいつも言っている。それを延々繰り返しすぎて、時代的に限界にきていると思うわけ。「戦争はとにかく悪かった。戦争にまつわる残酷なことはいっぱいあった。気の毒なことも色々ありすぎた。いちいち謝りましょう」と、クラスの一番優等生の部分が一生懸命率先して言ってて、これまでは五十人のクラスのうち四十人が優等生側で「謝りましょう」だった。こっちの不良側は十人もいなくて、密かに教室の隅で「あのバカ野郎、なにが従軍慰安婦だよ、なにが南京大虐殺だよな」とかコッソリ言っていて、万が一本気になって「なにが南京大虐殺三十万人だよ」なんて言おうものなら、四十人がドワーッとくるもんだからとてもじゃないけど言えなかった。でも今はそうじゃなくなってきているわけよ。教室の中央に向かって言うやつが、どんどん増えてきている。

岡田 その一番面白い段階って、こちらが十五人、相手が三十五人ぐらいですよね。

小林 そうだね。いまそのへんまできてるよ。

岡田 僕もそう思います。そこから二十五を超えて三十以上になると、そろそろ小林さんも面白くなくなってきますよね。

小林 もう過半数越えたら、そのあとは勢いづいちゃうから。わしの仕事はそこまで。

岡田 いいとこだけ持っていきますね(笑)。

小林 あとはたぶん反動がつくだろうから、とにかくそこまで覆していくところが醍醐味なわけでね。

岡田 それでガーッと勢いがつくと、「まったく悪くなかったんだ」と言うやつが出てきて、これはこれで困っちゃうわけですよね。

小林 そうしたら、またその時の少数派につけばいいんじゃないのかな(笑)。